会社の譲渡を検討しておられる経営者の方から、「基本合意書の案文を渡されたのですが、署名してよいものでしょうか」という御相談をいただくことが増えております。多くの場合、その電話をいただくのは、署名の期限まで数日という時点です。本記事は、M&Aの当事者となった経営者の方が、進行のどの段階で弁護士に相談すべきかという一点に絞って整理したものです。
M&Aの手続は、秘密保持契約、意向表明書、基本合意書、デュー・ディリジェンス、最終契約書、クロージングという順に進みます。この流れの中で、当事務所に最も多く寄せられる御相談は、最終契約書の案文が届いた後のものです。しかし、その段階で修正できる事項は、実際にはそれほど多くありません。価格の水準、譲渡の対象範囲、交渉の相手を選ぶ自由といった重要な事項は、その前の基本合意書の段階でおおむね固まってしまっているからです。
結論から申し上げます。弁護士に相談していただく時期として最も効果が大きいのは、基本合意書に署名する前です。署名の後では、失われたものを取り戻すために、はるかに大きな労力と時間が必要になります。以下では、どの段階で何が確定し、何が失われるのかを、順を追って御説明します。
本記事が扱う場面と、扱わない場面
弁護士への依頼という同じ主題であっても、判断の分かれ目となる論点は場面ごとに大きく異なりますので、次のとおり整理しております。
- 相談の時期(どの段階で弁護士に相談すべきか)……本記事
- デュー・ディリジェンスという場面……デューデリジェンスを弁護士に依頼するとき 売主と買主が弁護士に任せられる範囲と費用の考え方
- 株式譲渡契約書という場面……株式譲渡契約書の確認を弁護士に依頼するとき 署名の前に見ておくべき条項と依頼の時期
「まだ何も決まっていない」段階こそ、選択肢が最も多い段階です
御相談をお受けしておりますと、次のようにおっしゃる方が少なくありません。「まだ具体的な話にはなっていないので、弁護士に相談するほどのことではない」「相手方も決まっていないのに、費用をかけるのは早すぎる」。
選択肢の数は、時間の経過とともに一方向に減っていきます
M&Aの交渉において、売主が持っている選択肢は、時間の経過とともに減っていきます。複数の買主候補と並行して話をすることができる期間、譲渡の対象を株式とするか事業とするかを選ぶことができる期間、譲渡の時期そのものを見直すことができる期間は、いずれも交渉の初期にしか存在しません。
「決まっていない」ことと「決められる」ことは違います
まだ何も決まっていないという状態は、裏を返せば、これから決めることができるという状態です。弁護士が関与して意味があるのは、まさにこの局面です。すでに決まってしまった事項について後から意見を述べても、相手方には「今さら」と受け取られます。
相談の費用は、段階が進むほど高くなります
初期の段階で確認すべき事項は、株主の構成、定款の内容、許認可の承継の可否、主要な契約における契約上の地位の移転に関する条項の有無といった、比較的限られた範囲です。これに対し、基本合意書に署名した後で問題が発覚した場合には、その解消のための手続を別途組み立てなければならず、要する時間も費用も大きくなります。
M&Aの進行を段階に分けると、どこで後戻りができなくなるのか
売主の立場から見た場合の、後戻りのしやすさを整理すると、次のようになります。
| 段階 | この段階で決まること | 後戻りのしやすさ |
| 秘密保持契約 | 開示する情報の範囲と目的外使用の禁止 | 容易 |
| 意向表明書の受領 | 価格の目安と大まかな取引の枠組み | 比較的容易 |
| 基本合意書 | 交渉の相手、価格の前提、日程、独占交渉義務 | 困難 |
| デュー・ディリジェンス | 価格の減額要因、表明保証の対象 | 困難 |
| 最終契約書 | 補償の範囲、前提条件、譲渡後の義務 | きわめて困難 |
基本合意書が分水嶺となる理由
基本合意書は、しばしば「まだ正式な契約ではありません」と説明されます。たしかに、譲渡そのものを義務付ける効力は、通常は与えられていません。しかし、この書面によって、交渉の相手が1社に固定され、価格の出発点が定まり、その後の日程が定まります。これらは、いずれも後から動かすことがきわめて難しい事項です。
価格は「上げる交渉」ではなく「下げられない交渉」になります
基本合意書に記載された価格は、その後のデュー・ディリジェンスの結果を踏まえて減額される方向でのみ動くのが通常です。上振れすることはほとんどありません。すなわち、基本合意書に記載された金額は、売主にとっての上限として機能します。
日程は、会社法上の手続を織り込んで組まなければなりません
基本合意書には、最終契約の締結予定日やクロージングの予定日が記載されることが少なくありません。ところが、これらの日程が、会社法上必要となる手続に要する期間を考慮せずに定められている例が見受けられます。この点は後ほど改めて御説明します。
基本合意書のどの条項に法的拘束力があるのか
基本合意書は、その全体に法的拘束力があるわけでも、全体に法的拘束力がないわけでもありません。条項ごとに切り分けられているのが通常です。
法的拘束力を持たせないのが通常の条項
譲渡価格、譲渡の対象、取引の実行そのものに関する条項については、法的拘束力を持たせない旨が明記されるのが一般的です。デュー・ディリジェンスの結果によって内容が変わることが予定されているためです。
法的拘束力を持たせるのが通常の条項
これに対し、秘密保持、独占交渉義務、費用の負担、有効期間、準拠法及び合意管轄については、法的拘束力を持たせる旨が明記されるのが一般的です。すなわち、これらの条項に違反した場合には、損害賠償の請求を受ける可能性があります。
切り分けが明記されていない基本合意書が最も危険です
実務上、最も注意を要するのは、どの条項に法的拘束力があるのかが書かれていない基本合意書です。この場合、後に争いが生じたときに、条項の趣旨や当事者の交渉経過から拘束力の有無を判断することになり、結論を事前に見通すことが難しくなります。署名の前に、拘束力の有無を条項ごとに明記させることが重要です。
独占交渉義務を負った後、売主の交渉力はどう変わるのか
基本合意書に置かれる条項のうち、売主にとって影響が最も大きいのが独占交渉義務です。
独占交渉義務とは何か
独占交渉義務とは、一定の期間、当該買主候補以外の者と、譲渡に関する協議や交渉を行わない義務です。他の候補者からの打診に応じることも、情報を開示することも禁じられるのが通常です。
比較の対象を失うということ
売主にとって、価格交渉の最大の武器は、他に候補者がいるという事実です。独占交渉義務を負うということは、この武器を自ら手放すということにほかなりません。買主の側は、期間中、値下げの提案を行っても売主が他所へ移ることができないと分かった上で交渉を行うことになります。
期間の設定と、期間中の扱いを定めておくこと
独占交渉義務を一切負わないという交渉は、実際には難しい場合が多いと考えられます。そこで、期間を必要最小限にとどめること、自動更新の条項を置かないこと、買主が一定の期日までにデュー・ディリジェンスを開始しない場合や、基本合意書に記載された価格を大幅に下回る提案を行った場合には義務が消滅することを明記させること、といった調整が現実的な対応となります。
署名の前に日程表へ組み込んでおくべき会社法上の手続
中小企業の株式の多くは、定款により譲渡について会社の承認を要する旨が定められた譲渡制限株式です。この場合、株式を譲渡するには、会社法に定める承認の手続を経る必要があります。
承認の手続には法定の期間があります
株主は、その有する譲渡制限株式を他人に譲り渡そうとするときは、会社に対し、承認をするか否かの決定をすることを請求することができます(会社法第136条)。請求を受けた会社は、株主総会又は取締役会の決議によって決定をし(会社法第139条第1項)、決定の内容を請求者に通知しなければなりません(同条第2項)。会社が請求の日から2週間以内にこの通知をしなかったときは、承認をしたものとみなされます(会社法第145条第1号)。
具体的な日付で考えてみます
たとえば、クロージングの予定日が令和8年11月30日と定められた場合を考えます。クロージングの日には、株主名簿の名義書換(会社法第133条)まで完了していることが求められます。名義書換の前提として、承認の手続が終わっている必要があります。会社が承認の決定をし、その通知をするまでに最大で2週間を要しますので、取締役会の招集に要する期間を加えると、承認の請求は遅くとも令和8年11月10日ごろまでには行っておく必要があります。
事業譲渡の方式による場合は、さらに時間がかかります
株式の譲渡ではなく事業の譲渡による場合には、事業の全部の譲渡又は事業の重要な一部の譲渡について、効力発生日の前日までに株主総会の決議による承認を受けなければならず(会社法第467条第1項第1号、第2号)、この決議は特別決議によります(会社法第309条第2項第11号)。株主総会の招集の手続に要する期間を見込む必要があります。加えて、当事会社の規模によっては、独占禁止法に基づく企業結合の届出を要する場合があり、届出が受理された日から30日を経過するまでは株式の取得をすることができません(私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律第10条第2項、第8項)。
なぜ「弁護士は最終契約の段階で十分です」と言われるのか
基本合意書の署名を求められる場面で、弁護士への相談を勧められることは多くありません。その理由を、相手方の立場から3つに整理します。
第1 仲介会社の報酬は成約を前提としています
M&A仲介会社の報酬は、多くの場合、基本合意書の締結時と最終契約の締結時に発生する構成になっています。仲介会社にとって、基本合意書の締結は報酬の発生時点であり、かつ案件が動き出したことを示す節目です。この段階で交渉が停滞することは、仲介会社の利益とは一致しません。
第2 買主にとって、独占交渉権の取得は早いほど有利です
買主は、他の候補者が現れる前に交渉の枠を固めたいと考えます。したがって、基本合意書の署名を急ぐ動機を持っています。「まずは大枠だけ決めましょう」という提案は、買主にとって合理的な行動です。
第3 売主に「まだ契約ではない」という説明がされます
基本合意書は、その名称からも、正式な契約の前段階であるとの印象を与えます。実際に、譲渡そのものを義務付ける効力は与えられていないことが多いため、この説明が誤りであるとまではいえません。しかし、前述のとおり、拘束力を持つ条項は含まれており、また拘束力のない条項も事実上の基準として機能します。
署名の後に相談された場合に、なお取り得る手段
すでに基本合意書に署名してしまった場合であっても、できることが残っていないわけではありません。
有効期間と失効事由を確認します
独占交渉義務には期間が定められているのが通常です。期間の満了により義務が消滅すれば、他の候補者との交渉が可能になります。また、買主が所定の期日までにデュー・ディリジェンスを開始しない場合などの失効事由が定められていることもあります。
デュー・ディリジェンスへの対応で守ることができる範囲があります
価格の減額は、デュー・ディリジェンスにおいて発見された事項を理由として提案されます。したがって、開示の方法と範囲を統制することにより、減額の根拠とされる余地を狭めることができます。
最終契約書の条項で調整できる範囲があります
基本合意書で価格の前提が固まっていても、補償の上限額、補償の請求ができる期間、表明保証の対象範囲といった条項によって、売主が最終的に負担する金額の幅を限定することは可能です。
いま確認していただきたいこと
本日のうちに、次の事項を御確認ください。
第1に、お手元の基本合意書の案文に、どの条項に法的拘束力があるのかを明記した条項があるかどうかを御確認ください。「本合意書のうち第◯条から第◯条までを除き、法的拘束力を有しない」といった記載があるかどうかです。
第2に、独占交渉義務の条項について、期間が何か月と定められているか、自動更新の定めがあるか、失効事由が定められているかを御確認ください。
第3に、署名の期限として告げられている日付と、最終契約の締結予定日、クロージングの予定日を書き出してください。
第4に、会社の定款を取り出し、株式の譲渡について会社の承認を要する旨の定めがあるかどうか、承認の機関が株主総会と取締役会のいずれとされているかを御確認ください。
第5に、株主名簿を取り出し、記載されている株主の全員と現在連絡が取れる状態にあるかどうかを御確認ください。
よくあるご質問
基本合意書に署名した後で、価格を引き上げてもらうことはできますか
実務上、きわめて難しいと申し上げざるを得ません。基本合意書に記載された価格は、その後のデュー・ディリジェンスの結果を踏まえて減額される方向で議論されるのが通常です。価格の水準を確保したい場合には、署名の前に、価格の前提となる財務数値や、減額の根拠とすることができる事項の範囲を書面上で限定しておく必要があります。
仲介会社が付いているのに、別に弁護士に依頼する必要がありますか
仲介会社は、売主と買主の双方の間に立って交渉の成立を支援する立場です。これに対し、弁護士は、依頼を受けた一方の当事者の利益のみを考えて助言をする立場です。両者は役割が異なりますので、いずれかがあれば足りるという関係にはありません。なお、仲介契約の手数料及びテール条項の内容それ自体についても、署名の前に御確認いただくことをお勧めしております。
相談の時点で、どのような資料を用意すればよいですか
基本合意書の案文、秘密保持契約書、仲介契約書又はアドバイザリー契約書、定款、登記事項証明書、株主名簿、直近3期分の決算書類をお持ちいただければ、初回の相談で相当程度の見通しを申し上げることができます。案文がまだ手元にない段階でも、定款、登記事項証明書及び株主名簿があれば、日程の組み方について御説明することが可能です。
署名の期限が明日に迫っていますが、間に合いますか
お電話をいただければ、その日のうちに案文を拝見し、少なくとも「このまま署名してよいか」「延期を求めるべきか」の判断を申し上げることは可能です。署名の期限は、多くの場合、法律上の期限ではなく、相手方が設定した目安にすぎません。延期を求めること自体が交渉の決裂を招くことは、通常はありません。
おわりに
M&Aの交渉において、売主が最も多くの選択肢を持っているのは、基本合意書に署名する前の時期です。この時期に確認しておくべき事項は、それほど多くはありません。定款、株主名簿、基本合意書の案文の3点があれば、判断の枠組みは組み立てることができます。
署名の期限が迫っている、あるいはすでに署名してしまったという場合でも、取り得る手段が残っていることは少なくありません。まずはお電話をいただき、現在の段階と、お手元の書面の内容をお聞かせください。必ず解決できますから、一緒に頑張りましょう。
M&Aにおける弁護士への相談の時期に関する御相談
弁護士法人M&A総合法律事務所 電話番号 03-6435-8418
受付時間 8時00分から21時00分まで(土曜・日曜・祝日を含みます)
出典
法令
会社法第133条第1項及び第2項(株主の請求による株主名簿記載事項の記載又は記録)、第136条(株主からの承認の請求)、第139条第1項及び第2項(譲渡等の承認の決定等)、第145条第1号(株式会社が承認をしたとみなされる場合)、第309条第2項第11号(株主総会の特別決議)、第467条第1項第1号及び第2号(事業譲渡等の承認等)
私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律第10条第2項(株式取得に関する計画の届出)及び第8項(届出受理の日から30日を経過するまでの株式取得の禁止)
国家行政組織法第14条第2項(訓令及び通達)
公表資料
国税庁「取引相場のない株式の評価に関する有識者会議(第1回)」資料(令和8年4月20日)
国税庁「取引相場のない株式の評価に関する有識者会議(第5回)」資料(令和8年8月20日)
なお、同会議において検討されている財産評価基本通達の見直しは、内容も実施の時期も確定したものではありません。また、税法上の評価と、会社法上の「公正な価格」又は「売買価格」とは、目的も算定方法も異なります。財産評価基本通達は行政庁の内部の取扱いであって、裁判所を拘束するものではありません。
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